昨日行ってきた鎌倉の近代美術館での内藤礼氏の個展について追記。
昨日の記事:
http://masumotoya.exblog.jp/13563639/
わりと何かにつけて言ったり書いたりしてますが、僕はアートに「美」を求めておらず、自分のイマジネーションとの戯れに楽しみを見出しています。
作品は作家の自己表現に対する衝動やメッセージの発信だと思うので、作品が完成された時点でそれは作家から手を離れ、見る側の勝手な所有物になると考えます。なので、そこには解釈の正解というものはなく、見る側がどのように感じるか、感情がどう揺れるかということで自分(見る側)にとっての作品が完結する。
その捉え方はどんなでもよいと思っています。
そして、おそらくどんな作品でも感情を動かそうと思えば出来ますが、いちいちそんなことはしていられないので、惹きつけられるものに対してしかそれは起動しません。
個展を観に行くというのは、大抵において何かしらその人に関心があるからでして、そこに行ったからには何か自分なりの解釈を掴んできたいという願望があります。
実は行く前に、この個展を紹介してくれたFさんが「行ったら是非感想を聞きたい」と言ってました。
第一会場に入った瞬間。その意味がわかりました。
暗がりに中、ショーケースの中に光る電飾のアクセサリー様のものがおよそ10点。
天井から下がる小さな風船がおよそ20個。
5分くらい居ましたが、自分の中になにも落ちてきませんでした。
そして、ふと気づいたらショーケースの中を歩いてる人がいます。
4箇所あるケースのうち2箇所で、人が入れるようになっていました。
おそらく通常はスタッフが展示の準備や片付けのためにしか入れないそのスペース。
まず、そこに入れることに興味がわき、数名が並んでる列に入りました。
20mほどのスペース。
大体ひとり1~2分。
自分の順番になり、そこに入ると、当然、先述の電飾のアクセサリー様の作品に目が行きます。
しかし目を上げ、ケース内からガラスを通してフロアを見るとそこに不思議な感覚が宿りました。
もともとケースの中に入ることに楽しみを見出していたのが、入ってみるとその視界の変化に感情が揺れました。
そしてさらに、その電飾の作品が、ガラスを通して合わせ鏡のような効果を生み出し、実際の数の二乗にも三乗にもの数で浮かび上がってくるのです。
すると、自分は沢山のその虚像の光に包まれているように感じられ、実際に存在する物体としての作品が逆に虚像のようにさえ感じられてきました。
ケースの外に出ても、一度その仕掛けに気づいてしまったために、色々な角度からその合わせ鏡的写りこみを感じられ、会場に入って最初の5分とはまったく違う空間感を体感することが出来ました。
果たしてそれが、内藤氏が意図したものかどうかはわかりません。
しかしながら、自分が得た感覚は今回の作品タイトルである「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」というセンテンスに寄り添うものでした。
僕にとっての解。
他の人にとっての解。
時には不可解。
不可解であることも大切な解。
アートの勝手さとそれゆえの凄さを感じました。
ちなみに第2会場の作品はさらに難解でしたが、薄紙にミクロサイズで印刷された「オイデ」という3文字に
アーティストのヒューマニズムと孤独を感じました。
当然これも僕の勝手な感覚です。
空間を作品化するインスタレーションの面白さは、自分が身を置くことで完成されるという観点でみると蔓延るバーチャルに対してのアンチテーゼかもしれませんね。